
第1話
窓辺の君
美大予備校の帰り道。
大きな画材のバッグが重い。
ユキは、今日も見知らぬ家の窓を見上げる。
いつもの白黒ブチが、こちらを見下ろしている。
鼻の周りに大きなブチがある。
たぶん、みんな残念な模様だと思うだろう。
ユキはその模様が、たまらなく愛おしかった。
「こんばんは、ハナブチ」
小さく、ささやく。
二階の窓には届かない、いつものあいさつ。
本当の名前は何ていうんだろう?
ハナクソ、ブチコ、ウッシー。
色々と想像するが、やっぱりハナブチな気がする。
いつか、デッサンのモチーフにしてあげるね。
ユキはそっと指さして、心の声でささやいた。
ハナブチは、くるっと回ってしっぽを立てた。
よく見ると、真っ黒なしっぽの先っぽだけが白かった。
少しご褒美をもらった気分になり、微笑みがこぼれた。
今日のデッサンの講評は、散々だった。
でも、明日からも頑張れそうだ。
ユキはバッグを肩に掛け直して、家に急いだ。
その日は、朝から雨が降っていた。
アジサイが、気持ちよさそうに咲いていた。
画材のバッグが濡れないように、傘の下に押し込みながら歩いていく。
今日のユキの絵は、後ろから3番目。
予備校では、評価の高い順に作品が並べられる。
いつになったら、上手になるのだろうか。
角を曲がれば、ハナブチの家。
ユキは足早に進んでいった。
赤と緑のニット帽。
今日のハナブチは、変な帽子をかぶっていた。
夏なのにクリスマスのようだ。
「メリークリスマス、ハナブチ」
鼻のブチが、今日もキュートだ。
ハナブチは不機嫌そうに、こちらを見下ろしていた。
「細部は良く描けている。でも全体の形が崩れている」
「描き込みで誤魔化さないこと」
講師からの厳しい指摘。
ユキの絵は、とうとう一番端に置かれてしまった。
帰りの電車の中、流れる景色をぼんやり眺めていた。
積乱雲が、激しい雨を降らせていた。
心が折れそうだった。
もう、やめちゃおうかな。
絵を描くって、もっと楽しいものじゃないの?
落ち込むユキに、追い打ちをかけるようにアナウンスが流れる。
「落雷による信号設備点検のため、しばらく停車します」
最寄りの一つ手前の駅で、電車は止まってしまった。
えっ、ちょっと待って、ハナブチに会えなくなる。
遅くなると、窓辺の君は部屋の中に入ってしまう。
けっきょく、30分以上のタイムロス。
ユキは、改札を走り抜けて外に飛び出した。
雨はもう上がっていた。
息を切らして走る。
角を曲がって、二階の窓を見上げる。
ハナブチが、カーテンにぶら下がっていた。
爪が引っかかって、降りられないようだ。
ハナブチはひとしきり暴れたあと、カーテンの下に落ちて走り去った。
こわばっていたユキの心が、ふわりとほどけた。
もうすぐ、予備校の夏期講習は終わってしまう。
まだ、やれる。
ユキは、まだ乾かない道を踏みしめて歩き出した。
改札を抜けて、空を見上げた。
いつもより、星が輝いて見えた。
バッグの中のデッサン。
今日のユキの絵は、前から3番目だった。
後ろからではなく、前から3番目。
足取りが軽い。
早く、ハナブチに報告しなきゃ。
角を曲がって、窓を見上げる。
厚いカーテンが、光を遮っていた。
ハナブチはいなかった。
急に星が暗くなったような気がした。
後ろから、ブーンと大きな羽音がした。
驚いて振り返ると、家の前の街灯を大きなカブトムシが飛んでいた。
ユキは街灯の柱に寄りかかって、溜息をついた。
カブトムシが、大きく旋回して窓に向かって飛んでいった。
数回、窓にぶつかって、窓の縁にしがみついた。
カーテンがふわりと捲れて、光がもれる。
小さな手がカーテンの隙間から伸びてくる。
窓越しに、肉球がバシバシとカブトムシを叩く。
ついに、キュートな鼻のブチがカーテンをかき分けて登壇した。
ユキは、周りに誰もいないのを見計らって、バッグから絵を取り出した。
両手で絵を掲げて、心の中で叫んだ。
ハナブチ、私、頑張ったよ。
ハナブチは、一瞥もせずに、カブトムシに夢中だった。
ユキの3番目は、カブトムシより下だった。
今日で、夏期講習は終了。
明日からは、部活で絵を描いていく。
窓辺の君に向かって、ささやく。
カブトムシに負けない絵を描くよ!!
ブーンと羽音を立てて、カブトムシが飛び去った。
ふと見ると、窓辺の君がこちらを睨んでいた。
私のせいではないんですよ。
ハナブチに手を振ってから、家に急いだ。
第2話 執筆中